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2014年8月26日 (火)

八月の慰霊

お盆の棚行を終えてからもしばらく法務の日が続いた。

毎年恒例となった八月の慰霊行の後の充足感に満ちた静かな余韻の中で、ずっと日本人の霊魂観・慰霊観について考えていた。

今年も15日は盆行を無事終えて靖国に向った。

毎年この日は不思議なもので都内はいつも快晴。

その後実家近くの殉難者慰霊碑にお参りすることも出来た。

誰から強いられることなく自発的に一宗教者として粛々と参じてる。

こうした行為は自らのいのちの根っこに繋がるような地に足ついたもので、合目的的な思想に立脚するものでさえない。

慰霊と同時に、むしろ今豊かさを享受して当たり前のように生かされていることを正視し、いのちの有り難さを覚知するものだ。ひいては連綿としたいのちの縁起に繋がる行為でもある。
それはロジカルなものでなく、むしろ解釈を排し、今自分がここに居ることを自覚できるスピリチュアルな感覚に近い。

国の為に命を賭した方々のおかげで今の日本の繁栄がある。

日本人的な美徳である自他無分別的価値観からすれば、自分の家族と他人の家族を別けて、前時代の直接関係ない人だから慰霊しないという発想はそこにはない。

むしろ今は亡き物言えぬ方々を慰撫し、想いを汲み取り、感謝して、陰徳を積んで各々の実人生を充実させて生きるのが日本人的な心性ともいえる。

殊に靖国問題に関してはこうしたデリケートな想いに立脚する人々と、そうでない人達との相容れぬ齟齬がある。

つまり、思想的に反対だからといって、その御魂の慰霊自体否定してしまうのが戦後の偏向的な唯物論者達の見方だ。
ともすれば、こうした私のような考え方を即座に戦争容認派とラべリングする者さえ居る。

否定された御魂は一体何処へ行けばいいのか。

この国には自国や先祖や家族を軽んじて否定して捨て去ってきたものが数多ある。

そして、現代日本で問題になっていることの多くは、そうした繋がりの意識を疎外してきたことに起因する歪みでもあると様々な場面で実感する。

いのちの縁起、平たく言えば、いのちの繋がりの意識の希薄化はいのちの脆弱性となる。

またそうした社会的規範の希薄化は対人的な繋がりの希薄化、人間関係の疎隔性とも密接に関係する。戦後派の人々は、戦前においても良い規範であったものをも諸共否定して、自らを地に足つける価値観そのものから遊離させるようにして社会を誘導してきた。

しかしながら、自発的に靖国に参拝する昨今の中高生や若者を見ていると、そのバラバラに瓦解した価値観のアノミー的状況に生きていた若者達こそいち早くその間違いに気づきはじめたことに否が応でも認識させられる。
参拝に来ているそうした若者達は、個人参拝や多くても二人程で、神妙な面持ちで静かに参拝だけ済まして早々と参道を後にするような、まさに誰からも教えられることなく率先して自発的に陰徳を積んでいる感がある。

戦後日本の過度な伝統的価値観の否定は、前時代的価値観の否定が根拠となっているが、それが単に前時代的であるからとの理由で因習全てを否定する反動的相対化だとしたら、その相対化の思考様式自体、不自由さや不完全さを孕んでいることは自明だ。
無論明治以降の闇雲な近代化や富国強兵や国家神道など、戦争に突き進む為の極度に偏向した諸々の政策に対する疑義や批判は当然あって然りだろう。

けれども、もし改善すべき既存の価値観があったとしても、それを基準に真逆な価値相対化を行うこと自体が、均衡を欠いた思考様式に堕してしまうことは、年々増加する若者達の自発的参拝を見ていると歴史的必然として明白ともいえる。

極端な価値相対化の合目的性に生きた人々が、晩年結局自分を支える指針を見いだせず、生きがいを探し続けるもどこか空虚である実例をいくつも知っている。

否定的なイデオロギーの合目的性に生きてしまえば、十全に自我や自己が育たず、尚更欠如を埋めるために、そうした志向性こそが自我や自己の根拠と錯誤して機能不全なイデオロギーに一生振り回され続けるのは当然といえる。

いにしえから伝わってきているものにはそれなりに理があるのだ。
仏教においても菩提回向の功徳が今生の自分に返ってくると説くのは、つまりそのままそういうことだ。
反転すれば、自らを立脚せしむる良き美徳や繋がりまでも
前時代的な遺物として否定した分だけ、それは自己否定として返ってくるといえる。

そうした価値相対化のアンチとしての生き方、すなわち自分の実人生を、手垢の付いた反国家や反家族や反共同体などのイデオロギー闘争にすり替えて生きることの悪弊を退けて、真に自他にとって良いこと当たり前のことを当たり前にしながら、既存の価値観への反動としての価値相対化を越えて時に悪習を改善しつつ、自他にとって更に良い生き方を模索してゆくのが真に成熟した生き方であるし、それがそのまま安らかなるこころの道となるのではないだろうか。

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